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毛替えという修理

 さて、理想的な毛の状態とは、薄く幅広に広げられた毛の張りが均等になっていて、毛を最も緩めた時にフロッグが革に当たる状態の毛の長さになっている毛替えのことだと、前回お話ししました。

 では、毛替えで理想的な毛の状態にするためにはどうするべきか、箇条書きにしてみました。

  • 楔は正確に0.1㎜以下の単位で削らなければならない
  • 楔の加工は0.1㎜単位を目視で判断する必要がある
  • 毛の長さは濡らしてから秒単位で変化していくので、濡らして毛を揃えてから縛るまでを毎回同じくらいの秒数で行わないといけない
  • 楽弓の反発力は個体差があるため、それぞれの楽弓に合わせて毛の長さを変えなければならない
  • 毛のバランスや長さ等は作業が完了するまで上手く出来たかわからないため、目視では確認できないが作業は完璧に終えなければ正しい毛替えにはならない

 順番に説明していきましょう。

  • 楔は正確に0.1㎜以下の単位で削らなければならない

楔とは毛を楽弓に留めるために使用している、バイオリンでは8㎜角ほどの木片で、ヘッドとフロッグ内部へ毛を固定するために使用します。

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楔 上図ヘッド 下図フロッグ内部 どちらもコントラバス用楽弓

 この楔は楽弓に作られている楔穴に合うように作らなければなりません。0.1mmでも横に隙間が出来ると、そこから毛が漏れてしまってバランスの良い張りにならないからです。(馬毛の太さは0.1mm前後です)

 そして、この作業はヤスリなどは使わず、平ノミだけで加工します。

 なぜなら、楔と楔穴の接触面を0.1㎜の隙間も開けずに作るためには、木片の各面をきれいな平面に作らないといけないため、ヤスリで作るよりも平ノミで作るほうが遥かに早く正確に作れるからです。

 そして楔穴と同じぴったりのサイズに作るには、削りカスを紙のように薄く0.1㎜以下の単位で削り出すことが出来ないと、楔は作れません。

 私も初めて楔を作った時は、一つの楔を作るのに何度もやり直して半日かかったものですが、今では5分とかかりません。

  • 楔の加工は0.1㎜単位を目視で判断する必要がある

 楔には毛が入る隙間を作らないといけませんが、これも0.1㎜以下の単位で左右同じ幅にしなければなりません。

 その上で、楔穴の横幅から判断して毛の入る隙間の大きさ(面積)を決めます。

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 楔穴は同じメーカーの楽弓でも個体によって若干の差があり、楔穴の横幅を見て、毛の入る隙間の幅を広くしたり、狭くしたりします。 同じ毛の量を同じように入れるためには、隙間の面積を同じにしないとぴったりと毛が入らないためです。

 もし、毛の入る隙間が大きいと楔は外れやすくなる(毛が楽弓から外れやすくなる)上に、毛の張りがきちんと均等になりにくくなります。

  • 毛の長さは濡らしてから秒単位で変化していくので、濡らして毛を揃えてから縛るまでを毎回同じくらいの秒数で行わないといけない

 楽弓の毛には馬のしっぽの毛が使用されますが、縮れていたり、曲がっている毛が混じっていて、ただまとめて縛るだけではきれいに揃いませんし、ある程度真っ直ぐとはいえ、楽弓に適するようにきれいに真っ直ぐではありません。

 そこで、水で濡らして毛を揃えて、張ったまま乾燥させることで真っ直ぐにしますが、毛は水を吸うと膨張しますので時間の経過とともに伸びていきます。

 毛は前述のように決められた長さにしなければなりませんが、秒単位の時間で長さが変わってしまうので、乾燥して短くなることを計算して、濡らしてから縛るまでは毎回同じくらいの秒数で行わないと、正しい長さには出来ないのです。その誤差は0.1mmとまでは言いませんが、目的の長さから1mm以下の誤差で出来ないと成功とは言えません。

 決められた長さにするには伸びが止まっていた方がいいので、試しに伸びをある程度止まるまで長時間水を吸わせてみましたが、今度は切れやすくなるので上手く出来ませんでした。

  • 楽弓の反発力は個体差があるため、それぞれの楽弓に合わせて毛の長さを変えなければならない

 スティックは天然素材であるフェルナンブーコという木材を使用しているため、同じメーカーであっても個体による誤差が大きく、反発力の強さに差が出ます。 そのため、どの楽弓でも毛を同じ長さにするわけにはいかず、反発力の強いスティックには毛は短めに、反発力の弱いスティックには毛を長めにしないといけません。 そうしないと、演奏するときの毛の張力が適切で無かったり、フロッグと革までの距離が離れすぎてしまったりします。

  • 毛のバランスや長さ等は作業が完了するまで上手く出来たかわからないため、目視では確認できないが作業は完璧に終えなければ正しい毛替えにはならない

 ここが最も難しいところで、毛替えという作業は各部分のそれぞれの作業で最高の仕上がりに出来たつもりでも、最後に毛を乾燥させるまでは最高の仕上がりになっているかどうかわからないのです。

 いわゆる一般的な木工作業は、どこまで削るのかを目で確認しながら作業することが出来、作業途中で失敗してもその時にすぐわかります。

 しかし、毛の長さはその時の気温や湿度によって毛が水を吸う量や乾燥度が違うので、絶対的に同じ長さにすることは不可能で、張りの均等さはある程度予測はつくものの、どこまでやればいいかといったことも作業中にはわかりにくく、作業途中で完全に正しいかどうか気づくことは出来ません。

 そのため、各工程を完璧に仕上げて行ったつもりでも最終的に完璧な毛替えになることはほとんどありません。

 毛替えは以上の事を実践しなければならないため、高等技術が必要な上、手を抜いたり、簡略化できる所は皆無で、すべての作業で常に最高の質が求められるため、どんなに技術が向上した職人でも最も難しいと言います。

 また、楽弓は繊細に作られているため、毛替えの作業中に破壊してしまうこともあります。

 私が今まで出会ってきた中で最も毛替えが上手な職人が、自戒も込めて「修理は破壊だ」と言っていたのが心に残っています。

 「毛替え」という修理がただの消耗品の交換だけではないところが、分かって頂けたでしょうか。

 見てわかるような華麗な技術よりも、地味で一般的には分かりづらいもののほうがすごかったりすることってよくありますよね。

 楽弓の毛替えは、あたりまえに最低限出来てないといけないものの基準が、ほぼ理想に近いところにあるので、それだけ難しくなってしまうのでしょう。