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理想的な毛替えとは

 バイオリン族の楽器で演奏をしている方が必ず定期的に行っている修理があります。

 それは楽弓の「毛替え」です。

 「でも、毛替えって毛を張り替えることだから、修理って言うより消耗部品の交換だよね?」

 って思っていませんか?

 実際その通りなのですが、その毛の張替え作業が「ただ毛を縛って楽弓に止めればいい」ってものでも無いのです。

 この「毛替え」という作業は、実はバイオリン属の修理・修復の中でも最も難しい作業のうちの一つなのです。それなのにも関わらず、定期的に行わなければならない作業でもありますので、修理人泣かせでもあります。

 ではなにが難しいのか、そのためには理想的な毛の状態とはどんな状態か理解していないと難しさがわかりませんから、まずはそれを説明します。

 理想的な毛の状態とは、

 毛が外れないとか、毛が抜けないといった当たり前のこと以外に

  •  薄く幅広に広げられた毛の張りが均等になっていて
  •  毛を最も緩めた時にフロッグが革にぴったり当たる状態の毛の長さ

 になっていることです。

 「薄く幅広に広げられた毛の張りが均等になっている」とは、右端にも左端にも毛の張りの偏りがなく、薄く幅広に広げられた毛の全面が同じ張りの強さになっていることです。

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フロッグを下から見た図:毛の張り(矢印方向に引っ張られる力)がすべての面で均等になるようにする

 毛の張りが偏っていると何がいけないのか。

 毛の張りが偏っているということはどちらかの端が強く引っ張られていることになります。そして、毛を張ると引っ張られている側にスティックが曲がってしまうことになるのです。

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楽弓を上から見た図:黒矢印側が引っ張られていると、赤矢印方向に曲がる

 一時的ならまだいいのですが、毛替えによって毛の張りに偏りが生じたなら、次に毛替えをするまで張りの偏りは直りません。

 次の毛替えまでということは半年後、あるいは数年後まで、片方に引っ張られたまま使い続けることになるので、スティックはその癖がついてしまい、曲がったままになってしまうのです

 「毛を最も緩めた時にフロッグが革にぴったり当たる状態の毛の長さ」とは、毛を緩めた時に毛が短くて張ったままになっているわけでもなく、毛が長すぎてダラダラになっているわけでもない、ちょうど若干緩む程度になる状態のことです。

 毛が短すぎて緩めても張ったままになっていると、毛に引っ張られたままになっているので、上記のスティックの曲がりと同じ様にスティックの反りが無くなって真っ直ぐになってしまいます

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毛を緩めた時の状態:上、毛が短い  下、丁度良い長さ

 また、楽弓は毛を一番緩めたときに丁度フロッグが革に当たるか、若干離れたところまで動くように設計されています。

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 そのおかげで、毛が丁度よい長さに毛替えがされていると、演奏のために毛を張って親指をフロッグに当てて構えると、親指の爪が革に乗るようになっています。

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 ところが長すぎる毛の場合、演奏のために毛を張るとフロッグと革が離れすぎてしまうため、親指の爪がスティックに直接当たるようになってしまい、爪でスティックを削ってしまうのです

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 どれもスティックの故障につながる状態になるため、きちんとした毛替えがされていない楽弓はいずれ何かしらの修理が必要な状態になってしまいます。

 どんな修理が必要かというと、例えば曲がってしまったスティックでは、アルコールランプやガスバーナーで熱を加えて机や膝などに当てて曲げなおします。 反りが無くなったスティックも同様の修理を行いますが、この修理はどんなに細心の注意を払ってもスティックが折れることがあります。 そのため、スティックの曲げ・反り直しは断られる場合は少なくないですし、もしやってくれるとしても折れてしまうことを了承(つまり、壊れても賠償請求しないことの確約を)しないと受け付けてもらえない場合があります。

 きちんとした毛替えがされていない楽弓は、最終的に修復不可能になってしまう可能性が高くなるわけです。

 「昔の楽弓が残されていないのは」の回でもお話ししましたが、楽弓はその本体ともいえるスティックの健康状態が楽弓そのものの健康状態と言えるので、スティックが修復不可能になった時にその楽弓は永遠に使用不能になります

 このように、楽弓の毛替えはきちんとしていないと楽弓の命を縮めてしまいかねない作業なので、「ただ毛を張り替えるだけ」ではだめなのです。

 そのため、きちんとした教育を受けている修理人は、毛替えの作業をするときにスティックに不必要な力がかかる事がないように、常に細心の注意と最高の技術で作業にあたります。

 そして、仕上がりが満足いかないようなら、納得いくまで何度でもやり直すようにします。

 「ヴィヨームの発明」の回で、ヴィヨームは所有者自身で毛替えができる楽弓を発明したことをお話しましたが、その背景には現代型の楽弓が完成してからさほど時代が経っていなかったので、当時はまだきちんと毛替えができる職人が少なかったのだろうと想像できます。 その事を憂慮して、彼はこの発明を思いついたのではないでしょうか。

 楽弓の理想的な毛の状態というのがわかって頂けたでしょうか。

 次回はこのことを踏まえた上で、理想の毛の状態にするために毛替えはどの様に行われるべきか、具体的に見ていきたいと思います。