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ネウマ譜

 前回タブラチュアについてお話をしましたが、タブラチュアは楽器演奏用に特化したもので音楽そのものを記述することには向いていないとお話ししました。

 では、現在のように音楽を記述する楽譜はどこから生まれたのか。

 その起源は「ネウマ譜」だと言われています。

ネウマ neuma[ラ] 記譜法の一種で主に聖歌の記譜に用いられた記号。これによる楽譜をネウマ譜とよぶ。・・・

音楽之友社:「音楽中辞典」より

 ネウマとはギリシャ語で「合図、身振り」という意味であり、合唱を指揮する際の手の合図のことを指していました。

 「聖歌」つまり歌を記したものですから、演奏法というよりも声(音)の高さや長さ、間の取り方を記録したことになります。つまり、結果的に音楽そのものを残すことになるので、この記譜法が発展して現代譜になっていったわけです。

 実は古代ギリシャには声楽と器楽においてそれぞれの記譜法がありました。その一つに、東方諸教会の聖歌『三位一体の聖歌』の上に音高を文字で記すギリシア記譜法がオクシリンコス・パピルスで見つかっています。

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オクシリンコス・パピルスの一部(記譜部分ではない)

 ところが、聖歌自体は昔から使われていましたが、その記譜法が中世にはほとんど途絶えてしまいました。そして、再度楽譜的記述が現れるのは9世紀頃からと言われます。ギリシャの記譜法が失われていた中世では、音楽は消えてなくなるものという考えになったので、長らく「記録する」と考えられなかったようです。

Sant' Isidoro di Siviglia dice espressamente che la musica non può essere scritta: "se i suoni non sono appresi a memoria dall'uomo, scompaiono, perché non si possono scrivere"(De musica, c. XV:PL 82, col 163.)

(セビリアの聖イシドールは、音楽は書くことができないとはっきりと言っています。「もし曲を人が記憶しないなら消えるだろう、なぜならそれは書くことができないためだ。」)

Wikipedia(イタリア語) 「Neuma」より

※聖イシドールは7世紀のスペインのカトリック神学者、作家、大司教

 これを裏付けるように8世紀以前のミサの作法などが書かれた典礼書には聖歌の歌詞しかなく、楽譜的な痕跡はありませんでした。その後の9世紀ごろになって、典礼書に手による記号の書き込みがされた跡が見つかっています。

 そうして、10世紀頃には歌詞に書き足したメモではなく、はっきりとした楽譜的な内容が書かれるようになりました。

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Codex Sangallensis 359

 単語の間隔がまちまちなのは記譜を行うことを前提としたものだからです。

 この楽譜はミサ中に持ち込んで見ながら歌うという風には使用していなかったようで、聖歌隊に歌を教える時に用いられたと考えられています。聖歌が歌われるミサの時には全員歌を覚えている(覚えていないといけない)ので、中世では現在のコンサートのように楽譜を見ながら歌う(演奏する)ということが無かったようです。

 つまり、もともと楽譜というのは演奏するためのものと言うよりはコーラス隊に教える時の覚書みたいなものでした。

 このような記譜法はヨーロッパ各地で様々な方法が考案されましたが、ただ音が低いか高いかの比較だけを示していて、まだどれぐらい高いかなどの決まった高さを示す譜表(横線)がありませんでした。

 譜表を使った記譜法は11世紀頃に現れます。

 はじめは1本だけだったものが曲によって線の数が増えたり減ったりして行きましたが、グイード・ダレッツォ(Guido d'Arezzo:991年または992年 - 1050年)が4本線の記譜法を完成させました。(余談ですが、昔の音楽史の本には「ギドー」って書いてあって、見返した時に誰の事かわかりませんでした。なんでそんな呼び方?)

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Guido d'Arezzo

 彼はどんな楽曲を表記する場合にも同じように使える記譜法を作り、それを説明した音楽教師向けの実践的なテキスト『アンティフォナリウム序説』を書きました。楽曲の記憶を補助するこの優れたテキストは人気となり、多くの写本が作られ、グイードの音楽指導法は高く評価されました。

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アンティフォナリウム序説(18世紀の写本)

 1028年、グイードは当時のローマ教皇ヨハネス19世の前でその指導法を披露するなど、カトリックではこの記譜法が標準となりました。

 ちなみに、『アンティフォナリウム序説』でグイードが「ドレミファソラシ」の階名を考案しました。(これ、「チコちゃんに叱られる!」でもやってましたね)

「聖ヨハネ賛歌」は、第1節から第6節まで、その節の最初の音はそれぞれC-D-E-F-G-Aの音になっており、それぞれの冒頭から「Ut Re Mi Fa Sol La」という階名が作られた。Utは現在でもフランスでは使われているが、発音しにくいため「主」を示すDominusのDoに変更され、世界中で広く使用されている。後に「聖ヨハネ賛歌」の最後の歌詞からSiが加えられ、現在使われている「ドレミファソラシ」が完成した。

ヨハネ賛歌
Ut queant laxis
Resonare fibris
Mira gestorum
Famuli tuorum
Solve Polluti
Labii reatum
Sancte Iohannes

Wikipedia「グイード・ダレッツォ」より

 ここまで進みましたが、まだこの段階では音符は音の高さ・低さを表しただけで、リズムを表す機能までは持っていませんでした。

 これは10世紀頃からポリフォニーが使われだしたとはいえ、それほど複雑なものではなかったため、いくつかのリズムパターンを決めることで歌手がリズムを読み取るという方法で十分だったためです。

 ところが、ポリフォニーが次第に複雑になるにしたがって、もっとわかりやすい方法でリズムが表される必要が出てきました。そこで13世紀後半に定量記譜法と呼ばれる方法が生まれてくることになります。

 ネウマ譜でも定量記譜法みたいな音価を使うようになりますが、この後に5線譜が出来てネウマ譜は一般的には廃れていきます。

 しかし、キリスト教の中では長らくネウマ譜を使用しており、現代でも使用しています。

 伝統というものは守ることが重要であったりしますから、問題が無いのならそのまま使われていくものなのでしょうね。

参考文献

 Wikipedia

 音楽之友社:「音楽中辞典」

 全音楽譜出版社 真篠 将 編:「音楽史」

 教育芸術社 千蔵 八郎 著:「音楽史(作曲家とその作品)」

 青山社 新造 文紀 著:「教養のための音楽概論」