サイトへ戻る

音を増幅する木材

 表板とバスバーはスプルスで出来ています。

broken image

(ところで、厳密にはブロックやライニングもスプルスで作る場合と、ウイロー(柳)で作る場合がありますが、使用部分が少ないのであえて無視していきます。)

 スプルスはマツ科トウヒ属の常緑針葉樹の総称で、日本語ではトウヒ属(唐檜属)といわれる木の仲間です。よくマツ科なので間違われて「松」とされることがありますが、「松」はマツ科マツ属で、樹形が広葉樹のように上部で広がるものが多く、幹もあまりまっすぐではありませんので、スプルスとは結構違う木です。

broken image

砂浜とマツ(福井県気比松原)

どちらかといえばクリスマスツリーでおなじみの「モミ」に似ている木です。しかし、モミもマツ科モミ属なので、これも厳密に言えばトウヒ属とは違います。

 トウヒ属の中でもドイツトウヒとかオウシュウトウヒと呼ばれる、アルプスなどの山岳地帯やスカンジナビア半島が原産の木がバイオリンに多用されています。

 アコースティックギターによく使われるシトカスプルスは別名ベイトウヒ(米唐檜)という名の通り、北アメリカの西海岸沿岸が原産地の木です。

broken image

オウシュウトウヒ 【伊】Abete rosso

 このオウシュウトウヒ、特にイタリアのフィエンメ渓谷(Val di Fiemme)のものが過去の偉大な製作家たちが使用してきた材料として有名で、現在でもフィエンメ渓谷の木材は楽器用木材として人気があります。

 また、スプルスはギター・ハープ・リュートなどその他の弦楽器や、ピアノなどの鍵盤楽器でも共鳴板として使用されている材料でもあります。

Si ritiene che numerosi strumenti musicali, anche di illustri liutai dei secoli scorsi, siano stati costruiti con il legname di risonanza della Val di Fiemme e della foresta di Paneveggio in provincia di Trento, nonché della Val Canale e del Tarvisiano in provincia di Udine. Antonio Stradivari, per i suoi straordinari violini, si riforniva presso la Magnifica Comunità di Fiemme. Attualmente, famose case costruttrici di pianoforti da concerto di alta gamma (quali, ad esempio, Bechstein, Blüthner, Fazioli) utilizzano per i loro strumenti tavole armoniche realizzate con abete di risonanza della Val di Fiemme.

Da Wikipedia, l'enciclopedia libera.

過去数世紀の著名な弦楽器(バイオリン)製作者の数多くの楽器は、 トレント州の フィエンメ渓谷(Val di Fiemme)とパネヴェッジオの森(foresta di Paneveggio)、およびウーディネ州の カナーレ渓谷(Val Canale)とタルヴィジャーノ(Tarvisiano)の木材を表板に使用して製作されたと考えられています。 アントニオ・ストラディヴァリは彼の素晴らしいバイオリンのために、 マニフィカ・コムニタ・ディ・フィエンメ(Magnifica Comunità di Fiemme)から物資を入手していました。 現在、ハイエンドコンサートピアノの有名なメーカー(ベヒシュタイン:Bechstein、ブリュートナー:Blüthner、ファツィオリ:Fazioliなど)は、フィエンメ渓谷のスプルスで作られた響板を楽器に使用しています。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

broken image

赤い印のある所がフィエンメ渓谷

なお、ストラディバリのいたクレモナはミラノの東南東約75kmに位置する

 ところで、ストラディバリの購入先である「マニフィカ・コムニタ・ディ・フィエンメ(Magnifica Comunità di Fiemme)」とは、フィエンメ渓谷周辺の地域を支配していた社会政治行政機関で、現在の日本で言うところの「市」に近い小さな共和制自治体のことです。ただ、領土としては何世紀にも渡ってトレント司教領に属していて、司教から資源の利益確保と一定の自治を保証されていました。

broken image

Magnifica Comunità di Fiemme の旗:

 この旗の中心にある丸い紋章は1587年にトレント司教領の君主であったルードビコ・マドルッツォ司教によって与えられましたが、この旗自体は19世紀半ばまではなかったそうです。

 では、なぜこのスプルスが他の楽器を含め響板、特に共鳴板として使用されるのか。

 共鳴板として必要な性質は、「軽く、腰が強く、振動しやすい」ことだと言われます。

 まず「軽さ」ですが、木材の軽さ(密度)を比べる値として気乾比重と呼ばれる値があります。

 気乾比重(きかんひじゅう)とは、木材を乾燥させた時の重さと同じ体積の水の重さを比べた値です。木材の硬さや強度を表す基準の一つで、数値が大きいほど重く、小さいほど軽い事になります。

 スプルスは木材の中では軽いものの仲間で、気乾比重が0.35~0.4です。日本の家屋によく使われる杉や檜といった針葉樹も近い値を示しています。

 ちなみに最も軽い木材は「バルサ」で、気乾比重が0.15~0.2です。

 重い木材として代表的な、バイオリンの指板にも使われる「黒檀」は気乾比重が0.85~1.09ですから、密度の濃い黒檀は水に沈みます。(気乾比重1が水と同じ重さ)

 そして次に「腰の強さ」ですが、楽器用のスプルスは鋼やガラスをも上回る強度を持っています。

最高級のバイオリン、ピアノ響板材料であるドイツトウヒ材の中には、35GPaを 超えるものもある。これは、鋼やガラスなどの値に比べて20~30%程度も高い。

出典:矢野浩之 楽器と木材

 ただし、どの方向でも同じ様な強度が得られるわけではなく、木目方向に対する力で最も強く、木目に垂直の方向に対する強度は一割程度になります。

 スプルスの木目はメイプルと違いとてもはっきりとしていて、夏目と言われる部分はとてもスカスカなのですが、冬目と言われる部分はとても硬く、この硬い部分が梁の様な役目を果たしているので、軽いのに鋼を超えるのような強度を作り出しているのです。

broken image

鉋掛けした後の柾目のスプルス

 最後に「振動しやすい」です。

 まず、想像してみて下さい。鉄の板を叩くとしばらく振動し続けますが、ゴムの板を叩いてもすぐに振動が止まってしまいます。なぜゴムはすぐに振動が止まってしまうのかと言うと、ゴム自身が振動を吸収してしまうためなのです。

 つまり、振動が長く続くためには振動を吸収しにくい材料でないといけないのです。

 しかし、振動を吸収しにくい鉄やガラスなら良いのかというとそうでもなく、鉄やガラスはある特定の音の高さで敏感に反応してしまう性質、いわゆる「共振」が大きく出てしまいます。そのため、ある音では大きな音がするのに、他の音ではそんなに大きな音がしない状態になったりします。

 さらに言うなら、演奏で使われる音の高さはごく限られた一部の音、つまり世界最大の音域を持つピアノでさえ一般的には88音(88鍵)のみしか使用しないのですが、自然界にある音はセントで言うならピアノの音域だけでも8800セントあります。

 何が言いたいかと言うと、共振する音が必ずしも演奏で使用される音になるとは限らないどころか、8800あるうちのどれかですから、それが88のうちのどれかに合うことはまずありえません。その上、少しずれたところで共振してしまうと、チェロでよく発生する「ウルフ音(ある特定の音でうなりが発生してしまう現象」が発生してしまいます。

 (逆に言えば、チェロにとってはスプルスは振動しすぎる材料なのかもしれません)

 上述のどちらも演奏するためには邪魔にしかならないので、共鳴板は振動を適度に吸収する必要もあるのです。振動を適度に吸収しつつ、適度に振動することで、共振する音がぼやかされ、幅広い音域を増幅することになります。

broken image

 その適度な性質の木材が「軽くて腰の強い」スプルスが経験的に最適とされ、後世になって科学的な分析によって、それまでの経験則が正しいことが証明されてきたのです。

 ちなみにメイプルは木材の中では振動吸収が最も大きい材料のうちのひとつです。バイオリンは弓によって持続音を作り出すので、楽器全体で振動が長く続く必要が無いのかもしれません。

 そのかわり、メイプルという材料の役目はその振動吸収性によって音色を作り出す事にあると考えられます。

 さて、バイオリンを作る上で使用される材料を見てきましたが、消耗部分を含めるとこれ以外の材料も使用します。

 次回はそれらも見ていこうと思います。

 出典・参考文献

 矢野浩之 楽器と木材 高分子 56巻 8月号(2007年)