16世紀に北イタリア地方で誕生したバイオリンは、長らく製作の中心地はクレモナや製作家が移住したミラノやべネチア、トリノといったイタリアの街でした。
これは18世紀中頃までヨーロッパでは音楽の中心地がイタリアだったことも影響しています。
クレモナで生産された楽器はヨーロッパ各地の宮廷や教会・修道院で演奏され、クレモナの製作家たちは修道会や貴族たちを得意先とします。
Louis Michel van Loo "Sextet" 1768
カトリック教会・修道会は音楽を布教活動に利用し教育も熱心で、その関係者を保護する存在でした。ニコロ・アマティはカルメル修道会と、アントニオ・ストラディバリはドメニコ修道会と、グァルネリ・デル・ジェズはイエズス会と関係がありました。
修道会は布教活動のためにヨーロッパ各地の宮廷に入り込んでおり、貴族や聖職者にクレモナ産バイオリンの購入を勧めていたのです。
フュッセンやアプサム、マルクノイキルヒェン、シェーンバッハといったドイツ地域でもクレモナやブレシアから移住したり技術を継承した製作家が街を発展させて主要生産地となったところもありましたが、ヤコブ・シュタイナーやマティアス・クロッツなどの一部を除いてその多くがクレモナの品質にはかないませんでした。
ところが、18世紀末のフランス革命に端を発した貴族の没落は、音楽家たちに影響を与えました。
そこで貴族の代わりに台頭してきた大衆が19世紀以降に音楽家たちを養うことになるのですが、今までと同じくらいの金額を稼ぐには多くの人達からお金を集めないといけなくなります。
そこで、大人数を収容できる大きなホールで、隅々まで音を届かせるために楽器の改造と大人数のオーケストラが必要になりました。
1870年3月1日、ウィーン楽友協会で行われた定礎式の様子:Illustrirte Zeitung
楽器であるバイオリンは音楽家の演奏会のように多人数によって買い支えるということが出来ません。クレモナはもちろん、ミラノやベネチアといったイタリアの他の街の製作家は貴族相手の高価格であったことも災いし、得意先を失っていきました。そのため、その多くが19世紀までに後継者が出来ないまま衰退して行くことになります。
その代わり、19世紀中頃まではフランスやドイツ地方の各工房で製作される小規模生産で市場はまかなわれていきました。
そしてこの頃からイギリスに続いて北米やヨーロッパ諸国の工業化が進み、一人あたりの国内総生産(GDP)が増加、つまり富裕層だけでなく中産階級も増加していきます。彼らは貴族の生活様式に憧れ、子どもたちに幼い頃から音楽を習わせる様になります。
そのため、19世紀末頃には演奏人口が広がりバイオリンの需要は拡大、アマチュアや子供が使う練習用楽器などの低価格な楽器が求められるようになりました。
そうなると個人製作家の工房では供給も価格も市場の要求には応えられなくなります。
そこでフランスのミルクールやドイツ地域のマルクノイキルヘン、ブーベンロイト、ミッテンヴァルトなどの製作家は合理化と工業化による大規模大量生産へと移行していきます。
これを裏付けるかのように、北米とヨーロッパの主要オーケストラの創設は1880年代から増加しています。
北米とヨーロッパにおける主要オーケストラの年代別創設数
特に1914年には第一次世界大戦が勃発したにもかかわらず、ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団やスイス・ロマンド管弦楽団、ラインラント=プファルツ州立フィルハーモニー管弦楽団など、ヨーロッパでも1910年代に多くのオーケストラが誕生しています。
しかし、ヨーロッパの生産地は第一次世界大戦によって壊滅的な打撃を受け、その需要に答えることは出来ませんでした。
そこでその需要を支えたのが日本の名古屋に本拠地を置く鈴木バイオリン製造だったのです。
ただし、その好景気は長く続かず、1920年頃には売上が大きく下がり、1000人以上いた従業員は300人ほどまで減っています。
その原因はヨーロッパの生産地が復興を遂げたからです。
しかし、またもや20年と経たずに第二次世界大戦が勃発します。
ここでも、ヨーロッパ、特にバイオリンの生産地が多いイタリア、ドイツ、フランスなどが戦地となって大きな影響を受けます。
上図の年代別オーケストラの創設数では1940年代がピークになっていますが、その多くが戦地とならなかった北米です。
1945年に第二次世界大戦は集結し、復興を遂げたヨーロッパで少しずつ生産地が復興してきます。
これまで、プロの演奏家や富裕層は過去にクレモナやフランス、ドイツなどで作られた銘器や製作家が新たに作った楽器を使用していました。
そんな個人製作のバイオリンも戦後には徐々に数を増やし始めました。特にクレモナでは戦前の1938年に設立された国立の製作学校が現在までに1000人以上の卒業生を輩出、今では毎年30人ほどが卒業しその多くが製作家の道を歩んでいます。
工場生産もヨーロッパの各地で工場が復興し、大量生産のバイオリンが拡大していきましたが、1980年代には「改革開放」政策によって中国が世界の工場として台頭してきます。
初めは「安かろう、悪かろう」という印象が強かった中国製のバイオリンも、今ではその価格に見合わないほどの技術力を持っています。
そして現在、中国の低価格のバイオリンに押され日本やヨーロッパの低価格バイオリンを作るメーカーは大きくシェアを奪われるようになりました。
これからは、中国にも多くの優秀な個人製作家が現れて、プロの使用する楽器もたくさん出回るようになるでしょう。
事実、私の中国人の友人には優秀な方がたくさんいます。
この様に、北イタリア地方から始まったバイオリン製作は今やアジアにまで広がっています。
バイオリンは高温多湿に適さない楽器なので、作られる場所も大陸の西海岸で中緯度地域のヨーロッパが適していると言えるのですが、日本や中国といった東海岸でも十分発達しています。
ということは、今後は南米やアフリカといった国々へと生産地が移っていくのでしょうか。
様々な文化や技術が現在のグローバリズムによって広がっていく中、バイオリンの製作技術もまた、様々な場所に広がって行くのかもしれません。
出展・参考文献
大木裕子 クレモナのヴァイオリン工房
Wikipedia