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パリ・ミルクールライン

フランスに本格的なバイオリン製作が伝わったのは、17世紀でした。

クレモナのニコロ・アマティ(Nicolo Amati)の弟子である、ムダール(Medard)ファミリーが彼らの生誕地ナンシー(Nancy)に持ち込んだのが始まりです。

その後、バイオリン製作はナンシーの南に位置するミルクール(Mirecourt)に拠点が移り、ミルクールでバイオリン製作は花咲きました。

そして、ミルクールで修行を積んだ製作者たちはパリ(Paris)へと進出して行きます。

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右上にナンシーがあり、その南の青い印がミルクール、中心の青い印がパリ

そのなかでも最も成功した人物が、ミルクール出身の製作家ジャン・バプティスタ・ヴィヨーム(Jean-Baptiste Vuillaume)です。

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Jean-Baptiste Vuillaume

彼はミルクールの製作家の家に生まれましたが、18歳でパリに出てシャノー(François Chanot)、レテ(Simon Lete)の元で修行し、30歳で開業しました。

開業してからは多くのメーカーと契約し、彼の工房や製作家自身の工房・工場で楽器や弓を多く作らせました。

特にミルクールの製作家・工場に弓を多く発注し、ミルクールの弓製作を発展させました。

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Dominique Peccatteが作ったVuillaumeのスタンプが刻印してある弓、

ヴィヨームは弓を製作せず、他の製作者に発注していた。

そして、この時期にバイオリン製作家で発明家でもあったヴィヨーム、バイオリニストのヴィオッティやシュポーア、現代弓を発明したトルテなどの活躍により、フランスでモダンバイオリンの形態が完成しました。

その背景には、社会の主役が貴族から市民へ移り、音楽シーンも対少数から対多数となったために、楽器の音量が必要になったことと、多くの楽器が必要となったところがあります。

そこで、ミルクールでは大量生産工場が経営されるようになり、バイオリン製作の主流が個人製作から工場生産へと移行しました。

工場製作とはいえ、現代の人たちが想像するような機械化された工場ではなく、人海戦術と分業による家内制手工業を大規模・効率化しただけのものです。

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Maison Laberte Hunbert Freresの組み立て工場:1900年頃

この工場の生産ラインでは300名余の労働者が働いていた。

手作りと言えば聞こえは良いですが、少ない時間で大量に製作する必要があるために品質の低下はまぬがれませんでした。

それでも価格が低いこともあり、バイオリンは工場製のものが普及していきます。

同時期にドイツ地方でも大量生産が始まり、個人製作家の家内制手工業を中心としたイタリアは取り残され、衰退していきました。

19世紀から20世紀半ばまで、バイオリンはフランス・ドイツ地方の工場製が中心となった時代でした。今でも規模は小さくなったとはいえ、ミルクールにはバイオリン工場がいくつか残っており、生産は続いています。

特に駒のメーカーとして世界的に知られているAubert Lutherieは今でもこの街で生産を続けています。

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また、ヴィヨームの名前を冠したバイオリン製作を教える学校もあり、個人製作家も多く活動している街です。

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そして、クレモナ同様にバイオリン博物館があります。

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この写真の右側にある看板は過去の製作家たちの生家などを標してあり、それぞれの場所には透明な看板で各製作家の名前が刻まれています。

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このように、ミルクールではバイオリンに関する観光に力を入れています。

パリにも多くの製作家がいましたが、「フランスのバイオリンの産地」と言えばミルクールが代名詞となっています。

出典・参考文献

The STRAD 2014年8月号